劉雲(りゅう うん)は、紀元前1世紀の中国、前漢時代の東平王である。生年不明、没年は建平3年(紀元前4年)。在位は鴻嘉元年(紀元前20年)から建平3年(紀元前4年)。死後、煬王(ようおう)と諡された。
父は宣帝の子で東平王の劉宇。妻を謁といい、子に劉開明と劉信、劉璜、劉恢、劉褒、劉且、劉鯉、劉允がいた。
生涯
鴻嘉元年(紀元前20年)、父の後を嗣いで東平王となった。居摂2年(7年)に子の劉信が反乱を起こしたとき、時の権力者王莽は、劉雲は父を毒殺して鉅鼠(大ネズミ)と呼んだと非難した。
哀帝の治世になってから(紀元前7年以降)、治下の無塩県の危山の土が盛り上がって草を覆い、馳道のようになり、瓠山で石が転がり立った。劉雲と妃の謁は、現地で石を祭った。帰って東平国の宮中に、瓠山をかたどった石の山を造り、そこに石を立て、倍草を束ねて祠った。倍草はメガルカヤという茅で、茅を束ねて神のかたしろを作り、それを祀ったのである。
建平3年(紀元前4年)3月、孫寵と息夫躬が、この祭祀を皇帝を祝詛(呪詛)するものだと告発した。哀帝は、この告発を寵愛する董賢の手柄にするために、文書を改竄して董賢が取り次いだことにした。獄で取り調べを受けた謁は、巫(神官)の傅恭と婢の合歓にこの神を祭らせて皇帝を呪い、劉雲を天子にするよう求めたと自白した。また、劉雲が、災異を予知する能力を持つ高尚と星宿を指し、哀帝が病で死に劉雲が天下を得ると言い、石が立ったのは宣帝が立った表れだと語ったとも証言した。役人は王を誅するよう求めた。
廷尉の梁相らは劉雲の無罪を疑い、改めて取り調べるため身柄を都の長安に移そうとしたが、そのために哀帝の怒りを買い、みな罷免された。
哀帝は東平王を廃し劉雲を房陵に移すよう詔を出した。劉雲はこの年のうちに自殺し、謁は棄市(斬首してさらし首)になった。
建平4年(紀元前3年)8月に哀帝は事件の功で董賢らを列侯に封じた。丞相の王嘉は劉雲の無実を疑い、梁相らの復織を求めて罷免され、元寿元年(紀元前2年)に獄死した。
哀帝が病死して平帝に代わった後、実権を握った王莽のはからいで、元始元年(1年)に子の劉開明が東平王に封じられた。
脚注
参考文献
- 班固著、『漢書』。
- 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
- 小竹武夫訳『漢書』1から8、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1998年。
関連項目
- 劉雲 (城陽王) - 前漢時代の同名の王。




