1992年のドイツツーリングカー選手権は、ドイツツーリングカー選手権の9回目のシーズンである。4月5日のゾルダー・サーキットで開幕し、10月11日のホッケンハイムリンクまで全12ラウンド、24戦でタイトルが争われた。
ドライバーズチャンピオンはクラウス・ルドヴィック、マニファクチャラーズチャンピオンはメルセデス・ベンツが獲得した。メルセデスにとって初のDTMタイトルであった。
1992年の参戦チーム・ドライバー
1992年の開催スケジュールと勝者
レース結果とランキング
ドライバーズ・チャンピオンシップ
上位25名がポイントを獲得した。1位から10位まで順に 20 - 15 - 12 - 10 - 8 - 6 - 4 - 3 - 2 - 1ポイントが与えられた。
マニファクチャラー・チャンピオンシップ
各ワークスの動向
- アウディ
1992年のDTMにアウディはSMS、AZRの2チームから4台のクワトロをエントリーさせた。最低重量は2年連続のドライバー・タイトルの獲得により1300kgとされた。これにより戦績が低迷したため、6月になって最低重量は1250kgに緩和された。アウディは1992年仕様のクワトロのエンジンに新設計のクランクシャフトを組み込んでいたが、シーズン中盤になってDTMのレギュレーションを統括するONS(ナショナル・モータースポーツ協会)に違反とされたため、アウディはシーズン途中でDTMから撤退することになった。優勝も4WD車が得意とする雨の中開催された第2戦・ニュルブルクリンクの第1レースでフランク・ビエラが挙げた1勝のみに終わった。
- メルセデス・ベンツ
1992年のDTMにメルセデス・ベンツはAMG、MS、ザクスピードから8台の190E2.5-16エボリューションIIをエントリーさせた。前年までメルセデス陣営の一角として活躍していたスノーベックはフランス・ツーリングカー選手権に活躍の場を移した。AMGは前年から残留のクラウス・ルドヴィック、エレン・ロールに加えて1982年F1チャンピオンのケケ・ロズベルグ、元F1ドライバーのベルント・シュナイダーを加入させドライバー・ラインナップを充実させた。クルト・ティームはAMGからザクスピードに移籍した。
メルセデスはオフシーズンのマシンの改良が奏功し、全24レース中16レースを制した。ドライバー・タイトルはAMGのルドヴィックとザクスピードのティームの争いとなったが、メルセデスがルドヴィックにタイトルを獲らせるようチームオーダーを出したことでルドヴィックの1988年以来のタイトル獲得が決まった。メルセデスはドライバー・タイトル以外にマニュファクチャラー、チーム(AMG)の両タイトルも獲得した。
AMGの女性ドライバー、エレン・ロールが第5戦・ホッケンハイムの第1レースで女性ドライバーとして初優勝を記録した。
- BMW
1992年のDTMにBMWはシュニッツァー、FINA、ビガッツィの3チームから6台のM3をエントリーさせた。BMWは体制を縮小させ、リンダ―にはワークスマシンが供給されなくなったが、アルミン・ハーネ、クリス・ニッセンにはワークスからのサポートが行われた。FINAはジョニー・チェコットがスポンサーのFINAと結成した新チームでチェコットのみの1台エントリーで参戦した。エースドライバーのチェコットを失ったシュニッツァーは1989年のDTMチャンピオンで、1990、1991年のイタリア・ツーリングカー選手権チャンピオンのロベルト・ラヴァーリアをDTMに復帰させた。
1992年仕様のM3はメルセデスに対して競争力が劣っていたため、ONSはシーズン中盤になってM3の空力モディファイを認める決定をした。この決定によって競争力の回復したM3は第7戦・ノリスリンク、第8戦・ブルノで4連勝を記録したがメルセデスの優位が覆ることはなかった。
BMW勢の最上位はFINAのジョニー・チェコットで新チーム、タイヤ銘柄の変更(1991年のヨコハマからミシュランに変更)と環境が変化した中で、2勝を挙げ、ランキング4位に入った。
- オペル
1992年のDTMにオペルは、クラス1仕様のカリブラの開発のためワークスチームを参加させず、エッゲンバーガー、イルムシャー、シューベルの各チームに対して技術、資金のサポートを行った。
スパ24時間、マカオ・ギアレース
1991年はDTM規定車の参戦が認められなかったスパ・フランコルシャン24時間レースだが、1992年は再び参戦が認められ、BMWのシュニッツァー、ビガッツィ、イタリアのシビエムの3チームから5台のM3をエントリーさせた。レースは前年優勝した日産のスカイラインGT-Rとの戦いとなった。スカイラインGT-Rは1991年より90kg重い1350kgの最低重量が課せられたが、最低重量980kgのM3よりもパワー、スピードとも優り、BMW勢は燃費の良さと信頼性を武器に戦ったがレースではスカイラインGT-Rに対して徐々に差を広げられていった。だがスカイラインGT-RはECUのトラブルで6位にまで後退した後、給油時に火災を起こして撤退し優勝争いはシュニッツァー、ビガッツィの2チームによって争われることになった。
レースはシュニッツァーのエリック・ヴァン・デ・ポール組と、2位のビガッツィのスティーブ・ソーパー組が同一周回で最終盤を迎えた。シュニッツァーは最終スティントでピットストップをせずヴァン・デ・ポールに最後まで走らせることにした。一方ビガッツィはピットストップを行い、タイヤ交換、燃料補給をし、ドライバーもソーパーに交替させて万全の状態でマシンを送り出した。ソーパーは激しく追撃し、ヴァン・デ・ポールをラストラップに抜き去り0秒48差で逆転優勝した。
メルセデスとBMWは1991年に続いてマカオグランプリのギア・レースに出場した。メルセデス/AMGは クラウス・ルドヴィック、 ベルント・シュナイダー、エレン・ロールと ケケ・ロズベルグの代役として地元ドライバー、二・アモリムの4台。BMW/シュニッツァーはロベルト・ラヴァーリア、 エマニュエル・ピロ、ヨアヒム・ヴィンケルホックの3台の他に地元ドライバーにもマシンをレンタルした。
前年、DTM勢に惨敗を喫した長谷見昌弘のスカイラインGT-Rは1991年より50kg重量を軽減され予選タイムを前年より2秒詰めることに成功したが、DTM勢はメルセデスのシュナイダーが,前年ピロが出したポールポジションタイムを5秒近くも縮めてポールポジションを獲得しDTM勢の優位が揺らぐことはなかった。
レースはメルセデス勢がアクシデントで崩れ、BMWがピロ、ヴィンケルホック、ラヴァーリアの順で1-2-3フィニッシュを決め、ピロは2年連続でギア・レースを制した。
ニュルブルクリンク24時間レースではDTMクラスから出場したBMWのジョニー・チェコット組が優勝した。
脚注
参考文献
- 『'92ドイツ・ツーリングカー選手権プレビュー』、「Racing On」 No.120、武集書房、1992年。
- 『'92ドイツ・ツーリングカー選手権レビュー』、「Racing On」 No.136、ニューズ出版、1993年。
外部リンク
- DTM-Saison 1992 bei DTM.com
- Plakate der DTM-Rennen 1992


![MercedesBenz 300 SL [W198] in](http://www.imcdb.org/i565072.jpg)

