劉 茂(りゅう も/りゅう ぼう、5年 - ?)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将で、群雄の一人。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。弟は劉匡。従兄弟は劉歙。甥(劉匡の子)は劉浮。後漢の光武帝(劉秀)の族父にあたる。
事跡
地皇3年(22年)に漢軍が勃興すると、劉茂も年18にして挙兵し、「劉先職」を号した。劉茂は、京県・密県(いずれも河南郡の県)の辺りで軍勢を集め、厭新将軍を自称し、潁川郡・汝南郡を攻略して、10数万の軍勢を率いる群雄の一人となった。なお、同時期の汝南郡には、劉望や劉信も割拠・活動していたが、これらの勢力との関係は不明である。
建武元年(25年)7月、族子の光武帝が河内郡に進軍してくると、劉茂は一族として軍勢を率いてこれに降伏し、中山王に封じられた。建武13年(37年)、宗室の王は全て侯に降格されたため、劉茂も穣侯に降格された。
なお、弟の劉匡も劉茂と同時期に挙兵し、建武2年(26年)、宜春侯に封じられた。人となりが謙遜であったため、永平年間に宗正に任命されている。
注釈
参考文献
- 『後漢書』列伝4 泗水王歙伝
- 同本紀1上 光武帝紀上
関連項目
- 新末後漢初




